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トークセッション1 養老孟司氏を囲んで ①

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かながわのナショナル・トラスト25周年記念シンポジウム
トークセッション1 養老孟司氏を囲んで(平成23年12月)

養老 孟司 氏

大ベストセラー「バカの壁」筆者で東京大学名誉教授。

養老孟司氏

岸 由二 氏

慶應義塾大学教授。専門に進化生態学。小網代野外活動調整会議代表。

岸由二氏

柳瀬 博一 氏(進行)

日経ビジネスオンラインプロデューサー

柳瀬博一氏

(柳瀬)まずは、養老先生と岸先生、お2人の子供の頃の自然とのかかわり方をうかがいたいのですが。

(養老)僕はもともと鎌倉で生まれ育って、子供の頃は市内を流れる滑川(なめりかわ)という川で魚やカニを、空地で虫を採っていましたね。今でも覚えていますが初めて昆虫の標本を作ったのが小学校4年生のときです。最近古い標本を整理していたら、一番古いのが中学生時代に採集した1950年から51年にかけてのものでした。

小学校の頃は終戦後で物がないので虫の標本作りも苦労しました。専用の昆虫針なんかないですから、留め針で代用するんだけどすぐにさびてしまう。コルクをひいた立派な標本箱もありませんから、お袋が医者でしたので薬瓶のコルク栓をもらってきて、それを剃刀で薄く切って、空き箱に糊で貼って、そこに標本を刺していました。箱もちゃんとしていなくて、標本を食べる虫がついたら、あっという間にアウト。さすがに中学校の頃になると、ちゃんとした箱を買ってもらったようで当時の標本が手元に残っているんです。

中学から高校にかけては、地元の神奈川県内をぐるぐる回って虫採りしました。よく行ったのが丹沢大山や箱根。いま、箱根に別荘をつくってそこに標本を全部置いています。箱根はいまでも周囲の自然環境が多様で、ちょこちょこ出かけては虫採りをしています。50年たって中学生時代の生活に戻ってしまった(笑)。

トークセッション1 養老孟司氏を囲んで

(岸)僕は横浜の鶴見で育ちました。ご存じのように大変な公害の町でしたが1950年代の半ばというのは、鶴見川を西にこえて丘陵地にでれば昔話によく出てくるような田園地帯でした。町のど真ん中に住んでいましたが、総持寺の丘陵地から獅子ヶ谷方向に数キロ歩けば谷戸だらけで、虫や魚を捕ったりして遊ぶことができたんですね。少し足が達者になると8キロ、9キロ離れた綱島まで出て、早渕川と鶴見川の合流点の極楽のような所で、朝から日が暮れるまで魚捕りをやっていました。

(柳瀬)お2人が少年期に親しんだフィールドで重なるのが三浦半島のあたりとうかがっていますが、養老さん、1950年代の三浦半島はどんなところでしたか?

トークセッション1 養老孟司氏を囲んで

(養老)私は栄光学園(現在は鎌倉市玉縄。旧田浦校地は現在、自衛艦隊司令部)に通っていたのですが、長浦港の脇に校舎があって、JR田浦の駅で降りてから国道を通ってながながと30分かかった。幹線道路でトラックなどもよく通る道端でしたがいろんな草が生えていて、例えばアザミだとカメノコハムシが2種類ちゃんとついている。足元ではゴミムシダマシとかが這っている。わざわざ山へ登らなくても虫の多いところでしたね。

栄光学園の校舎があったのは旧海軍工廠の跡地で、広いグランドには建物を壊した跡が残ったりして、秋ごろには草ぼうぼうなるので、生徒みんなで草むしりをやらされました。すると、大きなエゾカタビロオサムシがぼこぼこ出てくるものですから、それをみんな僕にくれるわけです。あいつは虫を集めているからって。この虫は草地がないとダメで、草地で蝶や蛾の幼虫とかを食べているのですが、そういう草原性の虫がいっぱいいた。

(柳瀬)この50年ずっと神奈川の自然を見てきて、どう変わりました?

(養老 )おそらくみなさんはもう覚えていないと思いますけど、鎌倉だったら、1950年代の鶴岡八幡宮の裏山って、すかすかの松林だった。それが今は常緑広葉樹にびっしり覆われたいわゆる鎮守の森。他の多くのところも、すかすかだったところが深い森に変わっています。

(岸)明治開国のころの写真がよく残っていますが、山っていうのはみんなすかすかですよね。昔話なんかでよくいわれますが、おじいさんは山へ木を伐りに行くのではなく、柴を刈りに行くのです。薪にしたり炭にしたりするから柴しかなかった。柴がしょぼしょぼ生えているだけで、でかい木はそもそも無かったわけです。それがたかだか50年くらいでこんなになってしまった。1960年前後の燃料革命で薪や炭が使われず、雑木林の伐採・管理が止まったからですね。

トークセッション1 養老孟司氏を囲んで

(養老)江戸末期の箱根湯本の写真が残っていますが、いまより全然開けている。当時、東海道の宿場で、たくさんの旅人が泊まりますから、煮たきが大変だったでしょう。燃料はもちろん全部木材です。家を建てるのも木材ですし、江戸後期の社会は、エネルギーの全てを木材だけに頼っていた。山の木々は常に切り倒され続けて、日本列島はぎりぎりでやっていたわけです。人口も増えていません。それが明治の開国から途端にばーんと増える。開国がいかに経済的に見て我が国に有利であったかがよく分かる。いろんなことが言われますが人口増加のスピードをみる限り、生物学的にものすごい速度で増えた。なぜそんなことができたのかって考えると、やはりエネルギー革命があったからですね。木材から、石炭、そして石油への。

(柳瀬)今日は鎌倉の養老さんのご自宅から一緒に車でここ横浜の日吉まで来ましたが、三浦半島の付け根から多摩丘陵の背骨にあたる横浜横須賀道路を走ってきました。その両脇はうっそうとした森が続きます。昔はどんなところだったのでしょうか?

(岸)僕は横須賀の武山とかよく行きましたけど、タブの単純林以外の森はすかすかだった記憶ですね。現在は手が入らず、伐採とか枝おろしとか出来ないまま最低限の管理で、開発しなかった不動産として残ったということです。

今は原生林かと勘違いされそうな森が広がっていますが、つい数十年前までうっそうとした森じゃなかった。これが逆説で、じつはそのすかすかの森に、オオムラサキやクワガタなんかいて、ゴマダラチョウなんか手でつかめちゃうくらいいたのです。

トークセッション1 養老孟司氏を囲んで
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