
(機関誌ミドリ131号2023)
神奈川県の植物相調査
県立生命の星・地球博物館 館長 田中 徳久
はじめに
神奈川県は、もっともよくその植物相(ある地域に分布している植物の種類の全体像)が調べられている都道府県だと言われます。県全体の植物誌・植物目録としては、『神奈川県植物目録』(松野編, 1933)、『神奈川県植物誌』(神奈川県博物舘協会編, 1958)、『神奈川植物目録』(宮代, 1958)、『神奈川県植物誌1988』(神奈川県植物誌調査会編, 1988)、『神奈川県植物誌2001』(神奈川県植物誌調査会編, 2001)、『神奈川県植物誌 2018』(神奈川県植物調査会編, 2018)の6編が刊行されているのです。

図1. 神奈川県植物誌調査会による新『神奈川県植物誌』3編
新『神奈川県植物誌』の特徴
この6編の植物目録・植物誌のうち、特に、神奈川県植物誌調査会による『神奈川県植物誌1988・2001・2018』(新『神奈川県植物誌』:図1)は、これまでの地方植物誌と一線を画すものとして高い評価を得ています。神奈川県植物誌調査会では1979年以来、継続して野外での植物相調査を実施して標本を採集し、神奈川県内各所の博物館・資料館に証拠標本として収蔵して貰っています。これらの標本は、神奈川県内を111個(『神奈川県植物誌1988』では108個)の調査区に分け、調査区単位で生育する植物を採集したもので、新『神奈川県植物誌』にはこれらの植物標本に基づく分布図が掲載されています。また、新『神奈川県植物誌』には各植物の解説と分布図に加え、見分けに必要な植物画(図)が掲載されているのも大きな特徴です。
新『神奈川県植物誌』は、このような特徴を持ち高い評価を得ていますが、神奈川県がもっともよくその植物相が調べらていると言われるようになった基礎には大きく2つの理由があると考えられます。
外国人の神奈川県での活躍
その一つは2023 年度前半のNHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」でも名前が登場し、先号でも少し触れた外国人たちの神奈川県での活躍です(先号ではサヴェチェとマキシモヴィッチにのみ触れました)。

図2. ツュンベリーが採集したクロモジの基準標本(UPS8796 ウプサラ大学)
スウェーデンのツュンベリーは、滞在した長崎だけでなく、江戸参府の途上の各地や箱根の山中で多くの植物を採集しています。ツュンベリーが新種として記載したクロモジ(図2)やオノマンネングサは、箱根で採集された標本が基準標本(学名の基礎となる標本)とされています。ペリー艦隊の随行員も多くの植物を本国に持ち帰りましたし、オランダのシーボルト(本来はドイツ人)は多くの日本人の学者を知己とし、植物標本だけでなく、生きた植物や哺乳類、鳥類、魚類の標本などもオランダに持ち帰りました。フランスのサヴェチェは横須賀に開設された官営製鉄所に医官として着任し、横須賀を中心に県内各地で植物を採集し、本国フランスのパリにいるフランシェに送りました。その標本はパリの国立自然史博物館に保管され(図3)、フランシェはサヴェチェと共著で『日本植物目録』を著しました。フランシェとサヴェチェは、多くの新種を記載し、その中には、神奈川県を基準産地とする植物が多く含まれます。ロシアのマキシモヴィッチは、開港した函館で助手に須川長之助を雇い、九州へ向かう途上、横浜に滞在しました。「らんまん」の主人公のモデルとなった牧野富太郎が、東京大学の出入りを差し止められた際に頼ろうとした研究者です。マキシモヴィッチが採集した標本は、サンクトペテルブルグのコマロフ植物研究所に保管されています(図4)。

図3. サヴェチェが採集した標本が収蔵されているフランスの国立自然史博物館の植物標本庫(パリ)

図4. マキシモヴィッチが採集した標本が収蔵されているロシアのコマロフ植物研究所(サンクトペテルブルグ)
なおツュンベリーより古い時代に、ケンペルも日本を訪れ、植物を採集しており、箱根でハコシネシダを採集したことはよく知られています。ただケンペルの時代は近代的な植物分類学の誕生以前であったため、植物学的な業績はあまり評価されていないかもしれません。とは言え、ヤマツツジやノハナショウブ、カラマツなどの学名に、その名が残されています。
日本人研究者、愛好家の活躍
もう一つは、牧野をはじめとする多くの植物研究者や愛好家が、植物採集に訪れたことです。神奈川県は首都東京の近くに位置する上、丹沢や箱根などで代表される豊かな自然を有しており、その最初の成果が、先号でも触れた横浜植物会の発起人の一人でもあった松野重太郎が編纂した『神奈川県植物目録』であると言えます。牧野本人だけでなく、その指導を受けた横浜植物会の会員もたくさんの植物を記録、採集し、神奈川県の植物相の解明に力を尽くしました。また、「らんまん」でも描かれていたように、調査だけでなく、植物の新種の記載、発表も、外国人の手から牧野を代表とする日本人の手に移りました。
神奈川県で記録された植物の数の変遷
外国人研究者や牧野ほかの先人たちによる蓄積、神奈川県植物誌調査会の尽力により、もっともよくその植物相が把握されている神奈川県ですが、どれくらいの植物が記録されているのでしょうか。その数は、『神奈川県植物誌2018』によると、在来植物2,199種類、帰化植物1,036種類の合わせて3,235種類になります(雑種を除く)。宮代(1958)を除く5編の植物目録・植物誌に記録されている植物の数を図5に示しました。在来植物は『神植誌88』まで増えていますが、神奈川県植物誌調査会による調査が進み、県内の在来植物については、おおよそ把握できたことが分かります。一方、帰化植物の数はずっと増え続けていますが、この傾向がいつまで続くか気にかかるところです。なお、このグラフの数には今は絶滅した植物や、どこかで一度だけ記録、採集された帰化植物も含みますので、今現在、神奈川県でみられる植物の数という意味では少し注意が必要です。

図5. 宮代(1958)を除く5編の植物目録・植物誌に記録されている植物の数の変遷
プロフィール

田中 徳久(たなかのりひさ)
県立生命の星・地球博物館 館長。専門は植物生態学。 写真はロシアのコマロフ植物研究所でのマキシモヴィッチの標本調査の一コマ。