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もう一つの関東大震災

タイトル

(機関誌ミドリ137号2025)

もう一つの関東大震災

神奈川県森林協会 内山 豊

はじめに

神奈川県森林協会には、古い一冊の報告書が残されている。「關東震災荒廢林地復舊事業報告」である。発行者は神奈川縣林務課。発行年は定かではないが、大正12年度から昭和4年度までの震災で荒廃した丹沢山地や箱根山地の復旧事業の写真や事業実績が掲載されている。所々語句の修正や追記がなされている。この報告書は、終戦後から昭和42年(1967)まで、当協会の前身である神奈川県治山治水協会専務理事を務められた関口権次郎氏の手記によると「確か県治山治水協会の図書として残っている筈」とされているものである。

関口氏は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災発生から4か月後、大正13年(1924)1月に、東京帝国大学林学実科・砂防学教授の諸戸北郎博士の強い推薦で、神奈川県に赴任し、昭和12年(1937)農林省山林局に転勤するまで、震災で荒廃した丹沢山地などの林地復旧に尽力されている。

その関口氏が赴任した当時、目の当たりにした関東大震災の被災状況もその手記に記されている。その一部を紹介すると、「関東大震災による、丹沢山塊の惨状は筆舌に尽くし難い。その一例を話そう。山北町の共和、当時の共和村の人遠か、八丁の部落附近あたりだったと思うが、対岸の山腹が、谷戸を飛び越えて反対側の山腹へおほいかぶさっていたし、また、丹沢山塊の至るところで谷が埋められて、頂上近くまで谷に沿って道がつき、自動車でその頂上まで行けるようなとこが数多くあった。そして、どう復旧したらよいのかさえ分からなかったといってよい。」(神奈川県林業史)と、渓流を挟んだ対岸から地震で崩壊した土砂が飛び越えくるといった想像もつかないような事態が発生していたのである。

当時、治山や砂防といった山地復旧の技術は、神奈川県ではほとんど実施されていなかった。このため、諸戸北郎博士のもとで砂防学を学んだ関口氏ら技術者が呼び集められたのであるが、その技術者の眼に映った山地荒廃は、復旧方法さえ見出せないほどの凄まじいものであった。

共和村人遠の渓岸崩壊と山腹工事(大正13年頃)

共和村人遠の渓岸崩壊と山腹工事(大正13年頃)

図1神奈川県震災荒廃林野復旧事業図 神奈川県所蔵

図1神奈川県震災荒廃林野復旧事業図 神奈川県所蔵

震災による山地災害の状況

図1は、関口氏らが復旧に当たった実績を示したものである。崩壊地は8,632ha(表1)、近年における国内最大級とされる地震による山地荒廃、平成30年(2018)9月発生、北海道胆振東部地震の約4,300haをはるかに凌駕する規模であり、その負の影響は、当時、山村の生業である製炭業だけでなく、横浜水道の供給をはじめ、堆積土砂による各河川の河床上昇が引き起こす都市部・農村部への水害は、長期間に渡り住民を悩ませることとなった。以下、被災の様子を伝える記録を紹介する。

「いざ山に登って山と言う山、嶺と言う嶺がすっかり土砂を洗い流して、岩石の骨を露わに出している惨状は、とても正視するに忍びない。こうらのしら崩れと言う山がある。崩れとしての名物であったが、今はどこを見てもしら崩れである。諸子平付近の山の如きは全山真白で、樹と言う樹は皆んな河流に押し流されている。」(「横浜貿易新報」大正13年8月3日(日)8418号()写真1)

「神ノ川は巨木大石が押し流された爲めと兩岸が甚しく崩壊した爲めとで、磧(※かわら)が廣くなり今では川原傳ひに三里も奥へ歩ける」(武田久吉「丹澤山塊略説(三)」)

「多くの人びとが山林からの収入によって生計を立てていた高部屋村日向地区では地震によって80町歩が崩壊するという大きな被害が生じた。さらに山頂山腹には亀裂が生じていたため、山津波の発生によって被害が拡大した。」(伊勢原市史通史編近現代)

「大正12年9月1日関東大震災、同年9月15日の大洪水により発電所はもちろん河原付近の家は流失し、さらに翌13年1月15日に丹沢山地が震源地とされる地震で土石流が発生して河原の少しの高台に残っていた家も流されてしまい札掛は一変してしまった」(山口あや子「丹沢札掛の話」)(写真2)

「大正12年9月1日午前11時58分、ごうごうたる地なり、地ひびきの音とともに、草や木も吹きちぎって巻きあがる黄煙は、天日ともに暗く、鳥屋山が悲鳴をあげて崩れる凄惨な地獄絵図を見るようであった。もはや山林経営も終るの感があり、人々は呆然自失した。この時、沢も谷埋めつくした土砂によって鳥やけものの巣を奪い、渓流魚が絶滅に瀕した。(」鳥屋財産区史編さん委員会「鳥屋財産区の歴史」)

「旧玉川は、関東大震災のあとは、降雨のたびに河床が高くなり、豪雨のときには忽ちはんらんして被害が続出し、美田を潤した玉川が人命を奪う魔の川となってしまった。」(武村雅之「神奈川県内陸中部での関東大震災の跡」)

「大正13年(1924年)9月のこときは青山における沈澄作業も効なく、濁水は西谷浄水場に達し、ろ過池のろ過膜を閉そくし、ろ過能力全く減退してついに9月19日・20日の両日市内全般にわたって減水または断水」(横浜市水道局「横浜市水道70年史」)

図2は、渓流魚であるヤマメ・イワナの絶滅範囲を示した図である。神ノ川、早戸川、中津川、玉川、日向川、大山川、金目川、葛葉川、水無川、寄沢、深沢、玄倉川といった渓流において絶滅していることから、これら河川における土砂の流出・堆積の凄まじさが理解できるものと思う。

旧玉川や道志川における横浜水道取入口のように、その激害地の下流では、震災後の降雨毎に土砂が押し出し、飲料水の取水に支障をきたし、洪水は耕地や住環境に長期間影響を与えることになっていった。図1にみる崩壊地は、その地震発生時の崩壊だけでなく、その後の余震や降雨により、崩壊地そのものを拡大させ、渓流に土砂を堆積させたものを反映し ている(写真2、3)。

表1 震災荒廃林野面積
流域荒廃面積
相模川2,496.60ha
花水川660.81ha
酒匂川4,346.08ha
早川378.20ha
森戸川32.82ha
足柄下郡その他流域260.49ha
要施業面積計8,175.00ha
不要施業面積457ha
総計8,632ha
写真1 震災直後の諸子平休泊所 神奈川県所蔵

写真1 震災直後の諸子平休泊所 神奈川県所蔵

写真2 札掛、布川河床の土砂堆積 大正14年9月

写真2 札掛、布川河床の土砂堆積 大正14年9月

図 2 ヤマメ・イワナの絶滅に見る崩壊・土砂流出激害地 鈴野藤夫「丹沢釣り風土記」より作成

図 2 ヤマメ・イワナの絶滅に見る崩壊・土砂流出激害地 鈴野藤夫「丹沢釣り風土記」より作成

写真3 玄倉川上流箒杉沢の河床に堆積する山腹崩壊土石 神奈川県所蔵

写真3 玄倉川上流箒杉沢の河床に堆積する山腹崩壊土石 神奈川県所蔵

復旧工事

こうした状況で、民有林の復旧工事は、被災当年度の大正12年度(1923)から昭和4年度(1929)までの7年間、全額国費で実施されることとなった。また、皇室の御料林(図1、灰色着色部)については、大正13年度(1924)から昭和10年度(1935)にまでの12年間実施された。

この広範囲にわたる崩壊地の復旧計画については、最近見つかった東京大学森林生物地球科学研究室に残されていた資料によると、緊急的な工事実施と並行しながら、国や東京帝国大学林学科諸戸北郎教授の助言のもと、崩壊成因、傾斜、方位、表土厚、所有、復旧見込みなどが綿密に調査把握され樹立されたことが明らかにされている(鈴木雅一ら「関東大震災の土砂災害報告書:勝沼恭太郎「中津川流域荒廃地調査報告」(1924)について」)。

民有林における復旧工事は、昭和4年度(1929)に世界恐慌の波及など経済状況の悪化により、打ち止めとなるが、昭和6年(1931)9月発行の「神奈川縣山林會報第8号」の巻頭言において、復旧工事の陣頭指揮を務めた初代林務課長中田寅之助がその進捗を報告している。

その報告によると総復旧面積は、8,632haの荒廃林野に対し1,912ha(復旧率は22%)、事業費総額は292万232円、炭焼などの生業が不可能となった山村失業者を、昭和4年度(翌年度繰越を含む)までに133万人を雇用したと報告した上で、「然るに未だ全崩壊面積の三分の一より完了致して居りません、殘りの三分の二を此儘に放任する事は許しませんので縣は勿論本會に於ても極力政府に陳情懇願致し」として、その復旧工事継続の必要性を強調している。

図1の緑色に着色された箇所が昭和4年度(繰越含む)までの復旧地を示し、赤色の着色箇所が未着手箇所を示している。なお、昭和6年12月に御料地の一部が県に下賜となったことから、図1の主に急峻で山岳地の上部にある未施行地のほとんどは、県が復旧主体となったが、戦時体制に突入し、その復旧は戦後に持ち越されることとなる。

当時の復旧工事は、「えんていをみたことも、造ったこともなかった」とあり、愛知や山梨など荒廃地復旧を先進的に行っていた地域から堰堤工事や山腹工事の実績のある職人を呼び寄せ、石材・萱(ススキ)・竹など現地材を活用した基礎工事を行ったうえで、ヤシャブシやマツなどを植栽し森林に戻す努力が行われた(写真4、5)。

戦後、昭和27年(1952)4月林野庁指導部は、全国的に荒廃規模が広大で、かつ公共性の深刻と認められる区域のひとつとして「丹沢山一帯」を指定し、その荒廃状況を調査している。これを受け、国では玄倉に「丹沢事業所」を設置し玄倉川上流部の直轄治山事業に着手するとともに、県では渓流荒廃4,719ha、山腹荒廃2,658haとして、昭和28年度から7年間の「林野保全計画」を樹立し、その実行機関として丹沢山地の東西、宮ヶ瀬と三保に治山事業所を設置し、戦時において中断していた復旧を再開した。

その後、度重なる風水害に対処しつつ、平成9年(1997)から13年(2001)の国・県の治山事務所が廃止されるまで約80年間、山地の復旧工事が延々と行われ、今日、私たちが享受する丹沢山地や箱根山地の森林の基礎が固められたのである。

写真4 三保村箒沢の山腹工事(萱筋工・編柵工・マツ植栽)大正14年度工事

写真4 三保村箒沢の山腹工事(萱筋工・編柵工・マツ植栽)大正14年度工事

写真5 山北町世附に残る現採石の堰堤 昭和2年度工事

写真5 山北町世附に残る現採石の堰堤 昭和2年度工事

おわりに

こうした先人たちが営々と復旧に取り組んできた森林は、現在、気象変動下の豪雨に晒されるようになってきた。また、いつも霧に覆われることの多かったモミ林やブナ林などが後退し、それらの枝からぶら下がっていたサルオガセは消え、丹沢山地の森林の下層を覆っていたスズタケが消滅し、そこに依存していたコマドリの囀りも聞こえず、土壌は侵食がはじまり、残った林床はニホンジカの好まない植物だらけになり、ヒルが丹沢中に広がり、いつしかこの単純化された森林が、当たり前のようになり「自然豊か」と形容されるようにまでなってきてしまった。

人の手で取り戻してきた森林が、いつしか真綿で首を締めるように蝕われ、健全であることの基準も変わってきている。崩壊地をひとつひとつ測量し、復旧方法を検討し、将来森林に戻ることに情熱をかけた先人たちは、どう見ているのであろうか。ネイチャーポジティブ宣言も生物多様性保全を叫ぶ声も空回りさせてはなら ない。なぜなら森林の衰退は、この震災復旧史が示すとおり、私たちの生存基盤そのものを危うくするからである。 防災の日、先人から渡されたバトンの重さを改めて思い返す一助として記す。

参照資料

1 神奈川県林務課「關東震災荒廢林地復舊事業報告」発行年不明
2 神奈川県農政部林務課「神奈川県林業史」発行年不明
3 神奈川県「神奈川県震災荒廃林野復旧事業図」発行年不明
4 秦野市「秦野市史史料叢書第8集 新聞記事」平成16年 1月、「横浜貿易新報」大正13年8月3日(日)8418号
5 武田久吉「丹澤山塊略説(三)」大正13 年5 月 科學知識 五月號、科學知識普及協會
6 伊勢原市「伊勢原市史通史編近現代」平成27年3月
7 武村雅之「神奈川県内陸中部での関東大震災の跡」歴 史地震第29号(2014)
8 山口あや子「丹沢札掛の話」平成15年1月
9 横浜市水道局「横浜市水道70 年史」昭和35年3月
10 鈴野藤夫「丹沢釣り風土記」1990年10月、白山書房
11 鈴木雅一、内山豊、堀田紀文(2025)関東大震災の土砂災害報告書:勝沼恭太郎「中津川流域荒廃地調査報告」
12 神奈川縣山林會「神奈川縣山林會報 第八号」昭和6年9月

プロフィール

内山 豊(うちやまゆたか)
1987年神奈川県庁に入庁。森林・林業関連行政に携わり、主に森林起因の災害に関する 復旧や予防(森林保全分野)を担当。2023年に定年退職。現在、神奈川県森林協会専務 理事として、会員(市町村・森林組合等)の取組を支援している。

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