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機関誌「ミドリ」について
2015ミドリ98号「桜ヶ丘緑地にあった『ビール工場』」その3
(その2の続き) | 「ビール工場」から清涼飲料水・製瓶工場へ |
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写真1(再掲) |
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丹治雄一 (神奈川県立歴史博物館学芸部主任学芸員) |
煉瓦造構造物の用途は現在のところ不詳ですが、緑地内では現在も地下水の湧出が見られることと、サッポロビールが所蔵する大日本麦酒時代の資料に、東京麦酒が契約していた「ビール工場」周辺の湧水や用水の利用継続の契約書の控があることから、ビール醸造に関わる湧水利用のための施設である可能性を指摘することができます。また、祠の跡とされる遺構に関連して写真1を拡大して見てみると、鳥居と思しき構造物が確認できます(写真4)。この「鳥居」は、講座で使用するために写真1を写真パネルに打ち出していただいたことにより「発見」することができたものです。現在、緑地内で鳥居の痕跡を見い出すことはできませんが、写真に写る鳥居の「発見」は、祠が存在した可能性が高かったことを示していると言えるでしょう。 |
写真4:写真1を拡大「鳥居」 |
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さて、清涼飲料水工場に転換した「ビール工場」のその後にも簡単に触れておきましょう。1916(大正5)年に、工場の隣接地(写真1で工場正門の左手前の敷地)にビール瓶を製造する製瓶工場が建設されます。工場を設置した日本硝子工業株式会社は、1920年に大日本麦酒に吸収合併され、製瓶工場は清涼飲料水工場と一体で保土ヶ谷工場として運営されるようになりました。1923(大正12)年9月1日の関東大震災では工場内の多くの建物が倒壊し、死傷者も出ています。煉瓦造の「ビール工場」はこの時倒壊したものと思われます。その後1936(昭和11)年に、大日本麦酒が所有する保土ヶ谷はじめ全国の製瓶工場の資産を継承して日本硝子株式会社(現日本山村硝子株式会社)が設立されると、かつての「ビール工場」は製瓶専業の工場となり、戦後までその事業を継続しました。製瓶工場は1985(昭和60)年に閉鎖され、現在は「横浜ビジネスパーク」に再開発されています。 |
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桜ヶ丘緑地の歴史的意味 |
桜ヶ丘緑地は、短期間ではありますが「東京ビール」というビールが醸造され、その後清涼飲料水工場および製瓶工場として長く使われた敷地の一部であり、「ビール工場」操業時にさかのぼる可能性がある遺構が遺されている、ビール発祥の地・横浜にある日本ビール産業史を語る上で重要な位置を占める場所です。今後も調査を継続してこの工場の歴史的変遷を明らかにする必要があることを確認するとともに、工場時代の遺構が遺るこの緑地が長く保存されることを願っています。 |
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写真5:桜ヶ丘緑地に現存する煉瓦造構造物 |
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おわり | |
2015ミドリ98号「桜ヶ丘緑地にあった『ビール工場』」目次①その1 なぜ保土ヶ谷に「ビール工場」があったのか? ②その2 「ビール工場」から清涼飲料水・製瓶工場へ ③その3 桜ケ丘緑地の歴史的意味 |
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■プロフィール■ 丹治雄一 Tanji Yuichi 神奈川県立歴史博物館学芸部主任学芸員 日本近現代史専攻。ビール産業史や近代建築史に関する調査研究や展示等を担当している。 |
自然へ一歩 | イソシギ 神戸宇考 |
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