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2015ミドリ98号「桜ヶ丘緑地にあった『ビール工場』」その2


ミドリ98号
2015年秋号


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(その1の続き) なぜ保土ヶ谷に「ビール工場」があったのか?

写真1(再掲) 


丹治雄一
(神奈川県立歴史博物館学芸部主任学芸員)

 では、保土ヶ谷にあった「ビール工場」は、こうした日本ビール産業の歴史の中でどのような位置づけにあるのでしょうか。この工場は、1897(明治30)年に東京市麹町区紀尾井町から保土ヶ谷の地(当時の神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町神戸字芝ヶ谷)に移転してきた東京麦酒株式会社の工場でした。同社は、1878(明治11)年に東京の洋酒販売商金沢三右衛門らが興した発酵社を前身としています。発酵社は、明治10年代後半に国内最大の製造高を誇った「桜田ビール」を醸造し、日本のビール産業草創期を牽引したビール醸造所でした。
 

写真2:東京麦酒株式会社時代の「東京ビール」ラベル


 ビールには大きく分けてイギリス風の上面発酵ビールとドイツ風の下面発酵ビールの2種類があり、現在日本の大手ビールメーカーが販売しているビールのほとんどはドイツ風のビールですが、明治10年代の日本ではイギリス風のビールが優勢で、「桜田」もイギリス風のビールでした。しかし、明治20年前後に相次いで設立された前述の各社が、大規模な機械設備を導入しドイツ風ビールを大量生産するようになると、イギリス風に比べて飲みやすいドイツ風が日本人に好まれるようになり、生産規模の面でも劣勢となった「桜田」は東京麦酒へと改組を行うとともに、ドイツ風ビールの生産へ転換することを決断し、その起死回生の地として選ばれたのが保土ヶ谷の地だったのです。東京麦酒は、保土ヶ谷への工場移転の翌1898年にドイツ風の「東京ビール」(写真2)を発売します。
「ビール工場」から清涼飲料水・製瓶工場へ
 保土ヶ谷移転後の東京麦酒は生産量を拡大させ、1900(明治33)年には国内のビール会社ではじめてビール瓶の打栓に王冠を使用するなど、業界で一定の存在感を示しましたが、次第に経営に行き詰まり、1906年に東京麦酒新株式会社と改称し、その翌1907年には大日本麦酒株式会社に買収されてしまいます。大日本麦酒は、1906年に前述した札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の3社が合併して設立された業界で圧倒的地位を誇るトップ企業でした。大日本麦酒保土ヶ谷工場となった「ビール工場」では、当初「東京ビール」の生産が続けられました。しかし、「サッポロ」「ヱビス」「アサヒ」の3大ブランドを擁する大日本麦酒において「東京」ブランドを維持するメリットは少なく、同社が1909(明治42)年に清涼飲料水事業に参入し、保土ヶ谷の「ビール工場」にその製造設備が設置された時点で「東京ビール」の生産は休止され、「ビール工場」は「シトロン」(現「リボンシトロン」)などの清涼飲料水を製造する工場に転換したものと考えられます。つまり保土ヶ谷の「ビール工場」の歴史は、わずか10年あまりであったということになります。
小稿の冒頭に掲げたのは、大日本麦酒の後継会社であるサッポロビールが所蔵する大日本麦酒時代に撮影したと思われる「ビール工場」の古写真です(写真1)。写真中央から右寄りに5階建て相当の高層部分を含む煉瓦造の大規模な建物が見えます。ここが「ビール工場」時代に製麦・仕込・発酵・貯酒の各工程を行っていた工場の心臓部であろうと思われます。そして、工場の後背地に広がっているのが現在の桜ヶ丘緑地です。桜ヶ丘緑地がいつからこの「ビール工場」の敷地であったのかは、資料不足のため明確ではありませんが、少なくとも昭和初期には大日本麦酒の所有地であったことは確認できます。
また、同緑地には「ビール工場」時代に遡る可能性がある煉瓦造構造物やかつての祠の跡(写真3)ではないかと伝わる遺構が現存しています。
 
写真3:祠の跡ではないかと伝わる遺構
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2015ミドリ98号「桜ヶ丘緑地にあった『ビール工場』」

目次
その1 なぜ保土ヶ谷に「ビール工場」があったのか?
②その2 「ビール工場」から清涼飲料水・製瓶工場へ
その3  桜ケ丘緑地の歴史的意味

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